『ギルバート・グレイプ』
ラッセ・ハルストレム監督/ジョニーデップ主演
映画『ギルバート・グレイプ』(1993年)は、ラッセ・ハルストレム監督によるヒューマンドラマ。
ジョニー・デップとレオナルド・ディカプリオが出演し、家族と責任の中で揺れる青年の姿を描く。舞台はアメリカ中西部の小さな町で、閉塞的な日常と人間関係が物語の背景となっている。
映画印象風景
人は、優しさだけでは生きていけない。
けれど優しさなしでも、生きていけない。
人は、優しさによって壊れていくことがある。
けれど優しさに、助けられることもある。
この町では、何も起こらない。
だから、何も変わらない。
町は私たちのゆりかごなのか、それとも檻なのか。
逃げられない。
逃げてもいいんだよ。
そして、人生はつづいていく。
若き日の名優たちの演技
まず初めにこの『ギルバート・グレイプ』を観はじめたときに、今をときめくジョニー・デップとレオナルド・ディカプリオの若かりし頃の姿が現れて、なんともいえない感慨深さのようなものを感じた。調べてみるとジョニー・デップは当時30歳で、レオナルド・ディカプリオは19歳。30歳のジョニー・デップはそろそろ頭一つ出て、頭角を現すかという頃なのだろうか。一方のディカプリオはまだまだ新人と言ってもいい。そういう二人の実人生が交錯するという意味でも、まずこの映画は記念碑的な一作なのではないかと思う。
そういう意味合いで観てしまうからなのか、全ての役者が巧者であるように感じる。
ちょっとした脇役でも、なんだかとてもいい演技をしている。表情も、動きも、役者としての素質を遺憾無く発揮しているように思う。それを観るだけでも、まずこの映画は観る価値があるのではないだろうか。
この世界の制限とは
人生はときに残酷だなと思うことがある。
自分の境遇を恨むことも、誰だってあるのではないだろうか。
恨まないまでも、あそこの家に産まれていればこんなことにはなってないのになぁとか、隣の芝は青く見えるもので、それを最近では“親ガチャ”とか言ったりするらしい。
私たちは両親を選んで産まれることはできない。
そしてそれは、産まれ育つ場所や地域、そしてそこで出会う友達、さらには言語とか気候、風土なども含めて、自分を限定する、場合によってはそれが制限や足枷になるかもしれない条件にもなっていく。
それを打破することも可能だろう。
しかし、その条件の中で生きなければならないことを強いられることも少なくない。
自分の状況を知らない人は、そんなことを相談すると、「できないことなんて何もないよ!」なんて励ましてくれたりもするが、でも、なかなかハードルが高いのが現実ではある。
何も知らなければ良かったのかもしれない。
”知らぬが仏”、知らないまま過ぎ去れば、そのまま一生を終えることもできる。
でも、知ってしまったらどうなのだろう。
自分の外には、もっと広い世界が広がっている。
その世界は、自分の可能性を拡げてくれる場所がかもしれない。
しかしもしかしたら、新たな挫折を刻むところかもしれない。
いずれにせよ、外にある世界を知らなければ、そもそも何も起こらないない。
いつもの通勤経路を外れてみる、
いつも行っているスーパーを別のところに変えてみる、
いつも行っている吉野家をすき家に変えてみる、
そんなちょっとした変化を起こすだけでも、世界は変わったものに見えてくるかもしれない。
では、
この際、仕事を変えてしまおう、
住むところを全く知らないところに変えてしまおう、
そんな大きな変化を起こしたら、もっと世界は変わるのだろうか?
でも、
そもそも、変化っていうのは、しあわせなのだろうか?
そもそも、しあわせは、人生の目標なのだろうか?
そもそも、しあわせってなんだろうか?
しあわせのカタチ、じんせいのカタチ
しあわせの形は人それぞれだと思う。
その人がしあわせを感じているのなら、それはそれでいいことだ。他人がそれをとやかくいう評価することもない。
だから、ここでもその“しあわせのカタチ”を追求しようなんて思っていない。私の考える“しあわせのカタチ”を披露しようというわけでもない。
そもそも生きることって、個人的なことなんだ。
正解はない。
正解がないというよりは、しあわせの正解は、その人が決めることだ。
街を歩くと、たくさんの人がいる。
たくさんの人生が行き交っている。
その中から、ひょんなことから人生同士が繋がっていく。
その場だけの仲かもしれないし、一生の仲になるかもしれない。
自分の中ではさどでもない出会いだったかもしれないが、相手にとっては強烈な印象だったかもしれない。
中身がどうであれ、お互いの“じんせいのカタチ”が交錯している。
折り重なるもの
『ギルバート・グレイプ』は、悩みの種となるものがいくつかあるグレイプファミリーを中心にして話が進む。
知的障害を持つアニー、夫を亡くしてから一歩も外に出れなくなった母、思春期の妹。
そして父から受け継いだ家はボロボロで、あちこちにガタが来ている。
どれ一つとっても大きな問題。
それがいくつも重なっているのだから、振り回されていくのは当たり前だ。
どうしたらいいのか、どこへ相談していいのか。
折り重なる難題を、一つ一つ棚卸して楽になりたい。
しかし、日々に追われ、日々に埋没していく。
この映画を観ているものは、誰しもこの主人公に自分の身を重ねてしまうのではないだろうか。
人生にはいろいろなものがやってきて、そしてそれが折り重なる。
笑顔であったり、やさしさであったり、悲しみであったり、傲慢であったり、信頼であったり、姑息であったり、安心であったり、汚さであったり、抱擁であったり、勇気であったり・・・
それらを全て抱合したもの、それが生きること。
どんな状況にあっても、どんな人生でもあっても、私たちにはいつもドラマが潜んでいるのだ。
変わる?変える?そのままで?
この町には、何も起こらない。
だからこそ、何も変わらない。
その家族には、何も起こらない。
だからこそ、何も変わらない。
平凡な日常?
いつもの日常?
それ以上を望む?
そのままでいい?
変わることがしあわせなのか。
変わらないしあわせもあるのか。
やさしさは助けでもあり、
やさしさは重荷でもある。
映画としても
映画や小説には伏線というものがある。
それを今は“伏線回収”というそうだ。
この『ギルバート・グレイプ』にも、いくつかの伏線がある。
いや、伏線というよりは、暗喩といったほうがいいだろうか。
あそこのセリフ、あそこの場面、さまざまな場面に、うまくつながりを作っている。しかもそれはあざとくなく、自然と繋がっているように見える工夫がされている。そして、それをわざとらしくしないように、演技をする俳優が、それを感じさせないような、でも微妙に感じさせるような、ありふれた風景をありふれたものにしないような、そんなうまい気配を感じさせている。
そして、なんでもないけれど、ドキッするようなところもある。
そのドキッと感は、決して派手ではない。
日常生活で、嫌な相手から電話がかかってきて、電話に出なきゃいけないような、あの小さいけれど、なんともいえない嫌な感じがする緊張があると思う。そんな小さいけれどストレスになるような、微妙な感じの連続もまた、この作品を引き立てている仕掛けなのではないだろうか。
本作品を観た後に、何かが残る。
そして、この世界が、また違った言葉を発して観えてくるのではないだろうか。
この映画は「優しさの限界」を描いている。
しかし、「優しさの無限の可能性」も描いている。
どちらを選ぶかは、この映画を鑑賞した者の心にそっと宿るだろう。
この映画もまた、この静かな棚に置いておきたい。
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この記事の読書人

瀬戸郁保
東洋医学・中医学を専門にしながら、興味のある分野のものをまたいで読んでいる雑食系です。人生後半戦に入ったので、ブログもどこまで続けるのか考えるけれど、それはそれで昔書いたブログの記事を読むと、やっぱりよかったなって思う日々。


